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愛おしき東北よ!

 

表川なおき

 

 

 2011年12月25日、髙輪眞知子、表川なおきの2名は休日を利用して東北の岩手県へ向かった。この日は強い冬型の気圧配置の影響で日本海側では大雪が予想されていた。そのため北陸自動車道では2回も除雪作業車の作業により徐行運転をすることになり、新潟中央ジャンクションから磐越自動車道の山間の猛吹雪を乗り越えてようやく郡山インターチェンジまで辿り着いた。これだけの豪雪地帯を抜けて来たのだから、東北方面へ入るとなるともっと厳しい道路状況になるだろうと予想したのだが、不思議なことに雪はあまり見られず乾いた路面にヒュウヒュウと寒風が吹き付るような様子だった。北陸地方の冬は湿気を含んだ雪が降り、東北地方の冬は気温がマイナス数℃へ下がり粉雪が舞うという、日本海側と太平洋側ではこんなにも違うものなのかと驚くばかりだった。あの日3.11後のライフライン復旧まで、被災地ではたくさんの方々が暗闇に包まれた避難場所で体を寄せ合い厳しいマイナスの冷気と闘っておられた。そしてその被災地の様子に世界中が心を痛めていた。

 

 翌26日早朝、マイナス8℃で凍結した国道343号を頼って私たちは「陸前高田市災害ボランティアセンター(http://rikutaka.ti-da.net/)」にたどり着いた。午前8時より朝礼が始まり準備運動を済ませて、マッチングで紹介された陸前高田市にある私有地のがれき撤去作業に行かせて頂くことになった。出発前の打ち合わせで、活動員の方が活動に際しての心構えをご教授下さった。「被災地での復興活動は全体に収束に向かっている。しかしながらここまでになるのに実に9ヶ月もかかった。その間、がれき撤去や倒壊寸前の家屋の取り壊し、行方不明者の捜索など懸命な活動が続けられてきた。ボランティアの方も全国からたくさん集まって下さり、ようやくここまでになったのはつい最近のことで、4月、5月の頃の騒然とした時期からは随分脱することが出来た。被災された方の中には、倒壊寸前の家屋取り壊し作業の際に、持ち主が分からないということで家を壊されてしまった方もある。支援の手も行き届かず、支援待ちの状態で絶望感に包まれている方もたくさんいる。ボランティアセンターとしては、そういう支援を求める方の要請に応じて出かけて行き、いずれ重機が入りがれき撤去工事が行われるとしても、その順番を待っている方の心を少しでも和らげたい。もし作業中に被災された方に出会い、その方が話し掛けてこられたならそのお話に耳を傾けてほしい。その間作業が中断しようと構わない。毎日私たちボランティアの人間がそばにいることを見てもらえることが大切なんだ。そのことで被災された方の心を少しでも和らげたい。そんな思いを込めて作業に取り組んでほしい。現地では皆さんが何気に立っているその場所に被災された方のご家族のご遺体が横たわっていたかも知れない。だから被災された方の気持ちを第一に考えて自らの言動にも注意してもらいたい。」私たちは身の引き締まる思いを胸に出発の準備に取り掛かった。

 

 ボランティアセンターで調達した土木作業用具を乗せた軽トラックを先頭に、全国から集まった有志ボランティアさんたちと一緒に陸前高田市の市街地へ向けて出発した。道中では気仙川沿いに内陸部まで10kmも濁流が遡ったという痕跡を見た。塩害を受けたであろう田畑もあった。プレハブ作りの本屋、薬屋、飲食店なども道路沿いに並んでいる。すべての物が変わり果てた姿で町を占領していた震災直後の状態から一変して、市街地の多くのがれきは撤去され仮置き場へ集積されていた。陸前高田市は広範囲に被災したため見渡す限り平面地が続いていた。景勝地高田松原も一本の松だけを残して無くなっている。目的地近くの土地にポツンと並んで二つの建物が残っていた。ひとつは住宅、ひとつは醤油会社だったらしく内部の物という物は外へ吐き出されていた。がれき撤去作業のため私たちが降り立った土地は三方を丘に囲まれた集落で、現地地図を見ると広い敷地を持つ旧家が数軒建ち並んでいた場所だった。30mほど見上げる丘の上には諏訪神社という神社があり、ここまで駆け上って非難された方は助かったそうだ。その話を作業中に出会った地域の方に聞くことが出来た。濁流は高さ10m以上になって迫って来たらしい。後日その神社へ避難された方が撮影した映像を動画サイトYouTubeで見ることが出来たのだが、10m以上というよりは高さ20mにも及ぶ濁流が神社のすぐ下でうねりを見せていた。音声には「ここも危ないぞ」という声が収録されており、濁流の海が陸前高田市街地を飲み込んでいる最中の恐るべき映像であった。この映像は19秒だけ収録されていた。

 

 作業中に出会ったその方は、地元紙が連載する被災前のふるさとの風景写真をスクラップブックにまとめたものを私たちに見せて下さった。そこには緑の植木に囲まれた日本家屋など古き良き町並みの様子が窺われるものなど、在りし日の陸前高田の姿が残されていた。私たちはその方の大きく開かれたお眼に吸い込まれるように只々お話に聞き入るばかりだった。別れ際につい「頑張って下さい」と声を掛けてしまい自分の無神経さがつくづく嫌になった。がれき撤去作業を行う現地ではそれぞれにスコップやつるはしを手にとって作業に取り掛かった。木材、鉄屑、ガラス破片、ビニール袋の切れ端などが散らばり掘り起こすと次々と出てくる。屋敷を囲う石材たちがバラバラに地面から顔を出しているのを若い人たちが懸命に掘り起こしている。外国人留学生の姿もあった。そうやって参加者全員でこつこつと作業をしている時に、大槌町ボランティアセンターから応援に来ていた女性が腕時計を発見して僕に見せてくれた。今朝即席班長に任命されていた僕は「センターに持ち帰りましょう」と応じ、濁流で散り散りとなった物品はこうやって無くした方の手元に届くのだという重い責任を感じた。後日、がれき撤去作業に従事させて頂いたこの地域の震災直後の映像を見た。そこには家屋の柱、鉄柱、トタン屋根、自動車などが無茶苦茶に曲がり破壊された姿があった。

 

 翌28日、私たちは岩手県遠野市に活動拠点を置く「遠野まごころネット(http://tonomagokoro.net/)」の活動に参加させて頂いた。活動参加には男子宿舎内掲示板に貼られている求人情報を見て、その用紙に名前を書き込むことで参加出来るというシステムで、前日27日夜に私たちが参加を希望したのは心のケアを目的とする「カフェ隊・ふれあい隊」の活動だった。活動内容は遠野まごころネットホームページにもあるように「《カフェ隊》仮設住宅の敷地内などでコミュニティの場となるカフェイベントを展開しています。同じ場所に定期的に伺い、信頼関係を大切にしながら『小さくとも長く続く』活動を目指しています。《ふれあい隊》タッピングタッチなどを通じて被災者の方にリラックスしていただく活動です。相手の背中や頭、手足などに自分の両手をあてたり、指先でポンポンと軽く触れることで、ストレスや不安を和らげて心身のリラックスを促します。」という内容で、翌日出発前にタッピングタッチの講習を受けて出発することになった。金沢から紙芝居を持って来たのでさせて頂けないかと申し出るとリーダーの方は歓迎して下さった。

 

 大船渡市街地へ向かう道中でいろいろと話をさせて頂き、本隊が年末用に全国から届いたミカン箱を大船渡市内の仮設住宅に届ける間に、リアスホールという愛称で親しまれる文化施設内の市立図書館で絵本も調達することになった。大船渡市街地に建てられた仮設住宅にたどり着くと施設員の方が迎えて下さった。私たちは談話室に「お茶っこ(お茶)」の用意をして「こんにちは、まごころねっとです!」と一軒一軒のお部屋に声を掛けて歩いた。こちらでは雪が降ると「雪っこ降ってきた」、風なら「風っこ吹いてきた」と言われるそうで、何とも言えない言葉の暖かみに心がくすぐられるようだった。年末ということもあり住民の方々は外出中だったため2時間ほど談話室で待機することになり、リーダーの方といろいろと話をさせて頂いた。「震災の津波によって気仙沼の冷凍倉庫が被災して、中に保管されていた冷凍サンマが流出して隣の町まで運ばれてしまった。外気に触れて解凍され腐敗したサンマの臭いに包まれた現場に行った時には、完全防備をしてボランティアメンバーと一緒に手当たり次第に大量のサンマの撤去作業にあたった。しかしそれでも追い付かずクレーン車で海底に埋めた。」ことなど、これまでの活動の様子を聞くことが出来た。遠野まごころネットの宿舎には22時消灯6時起床というルールのもと寝袋で寝起きしているボランティアの方がたくさんおられる。貯金を崩しながら活動を続ける方、食費を削り長く活動を続けようとする方、皆自分のことは後回しにして活動に専念している。その心意気には感服するばかりだ。

 

 夕方、外出から戻って来られた住民の方々が談話室に集まって下さった。皆さん笑顔で歓迎して下さったことが嬉しかった。3つの紙芝居をさせて頂いた。拙い私たちの紙芝居公演に笑って下さる皆さんに助けられ帰ることになったのだが、お集まりの中でただ一人、お子さんの笑顔が最後まで見られなかったことが、宿舎へ戻った後も私たちの胸を締めつけた。大船渡の仮設住宅では〝せっかく金沢から来てくれたのだから紙芝居を見てあげなければ〟という要らぬお気を遣わせることになったようにも思えた。振り返ると私たち2名は何も分かっていないまま、とにかく何かしなければという気持ちだけで東北へ来てしまったようだった。金沢へ帰る道のりでは全身を満たす無力感に苛まれたが、遅れ馳せながら東北へ駆け付けることができ胸の閊えがとれたような心持ちにもなった。褒められたものではないが、これが私たち2名の活動の第一歩になった。

 

 2012年2月、朗読小屋浅野川倶楽部では東北被災地支援活動を行う遠征メンバーを募った。3月29日、有志メンバー12名は岩手県一関市へ向けて出発した。翌30日は気仙沼市と陸前高田市の被災地を訪問した。この「被災地」という呼び方はもうやめて「復興地」と呼ぶべきで、「被災者」という呼び方も「被災された方」と言い換えるべきだろうと思うようになった。傷を受けた仲間に対して私たちが起こすべき行動は多岐に渡る。気仙沼湾に臨む市街地一帯はがれきが撤去され、ここも見渡す限り平面地が続いていた。気仙沼の地面に降り立った時一番に感じたことは〝空気の違い〟だった。この場所ではその空気が余りにも透き通っているように感じた。〝透き通っている〟とは変な表現かも知れない。しかし肌を吹き過ぎる風にしては何かしら風圧のようなものが足りない。滑らかにスルスルと滑って行く風だった。私たちは、もうこれだけで十分だと言うほど胸が一杯になり車に乗り込んだ。気仙沼漁港沿いに市街中心地へ向かう道中も凄まじい光景が広がっていた。人が住んでいる様子が見受けられず、大型の建物も骨組みだけを残して建っていたり、がれきの仮置き場には運搬用に変形させられた自動車が積まれていた。車内は息を飲んでいるのか静まり返り、視線は愛おしき復興地に注がれるばかりだった。地面が歪んで舗装されてない道を進む際は大いに車体が揺れたが、舗装工事を行っている作業員の方々の視線が「お前ら何しに来たんだ」と突き刺さって来るように感じられ、一礼して後ろめたい気持ちでそそくさと先へ進んだ。今回の旅では途中途中で写真撮影をさせて頂いた。現地の方々にとっては複雑な心境に駆られることだと思われたので、細心の注意を払って撮影をさせて頂いた。震災から1年経った今も復興地は傷付いたままであることを、たくさんの方々に広く知って欲しいという思いで撮影させて頂いた。もし私の行動が誰かを傷つけてしまったなら伏して謝りたい。

 

 市街中心地へ着くと気仙沼復興商店街「南町紫市場」でお弁当と土地のものを仕入れた。仮設店舗で営業を再開された老舗料亭「割烹世界」でメンバーが聞いた話によると、息子さんが金沢の懐石料理「卯辰」でご修行を積まれたそうで、金沢から来た私たちに親しみを持って下さったようだった。車に乗り再び気仙沼漁港沿いの道を進んで行くと、県道34号線沿いに大型漁船が鎮座しているのが見えてきたので一旦車を止めた。大型漁船は「第十八共徳丸」という名前で、気仙沼湾から約500m内陸に打上げられていた。リアス式海岸の地形を活かして漁業が栄えた気仙沼市では、その左右から迫る山が津波の高さを大きくしてしまった。市内を流れる鹿折川を中心に濁流が遡り、備蓄倉庫から200リットルのドラム缶約5万7600本分の油が流出したらしく、鹿折地区では大規模な火災が発生した。鎮火したのは震災発生から12日後の3月23日の朝だったそうだ。この火災の海の中に第十八共徳丸の姿もあった。今は大きな鉄骨で左右を支えられそのまま残されており、菅原茂気仙沼市長は「地域や地権者の理解を得ながら整備をし、今後の防災教育などに役立てたい」と復興記念公園の整備を検討されている。鹿折地区を後にして、私たちは県道34号線から国道45号線へ移り陸前高田市を目指した。30分ほど走り丘を下って視界が開けると右方向に陸前高田市立気仙中学校が現れた。その奥には奇跡の一本松が見える。陸前高田市は避難場所の高台まで比較的距離があったため人的被害が大きかった。昨年末にがれき撤去作業をさせて頂いた場所は重機が入りダンプカーが行き来していた。地元消防団の方が震災時に避難誘導された食品スーパー「マイヤ」の屋上も、連日報道番組で放送されていた陸前高田市役所も遠くに見える。そこへ近寄る勇気は私たちには無かった。2012年4月11日に警察庁緊急災害警備本部が発表した資料によると、岩手県の死者・行方不明者5,907名の方々の内、陸前高田市民の死者・行方不明者の方々は1,789名にもなる。東日本大震災で行方不明となっている方々の一日も早いご帰還と、亡くなられた方々の魂に心から祈りたい。

 

 翌31日は花巻市の宿舎から宮古市を目指して山あいの道を走った。2時間30分ほどで着いた。予定より早く到着したため市街地を周り宮古湾の神林木材港へ辿り着いた。港には防波堤が備えられていたようだが、津波によって破壊され水没した跡が生々しく残っていた。立ち入り禁止区域の入口の隙間から半壊した漁業施設が見えた。この日は宮古市生活復興支援センター辻さんのご尽力により2カ所の仮設住宅の訪問先をセッティングして頂いていた。遠征メンバーたちはそれぞれに考えを出し合って、お茶会と朗読と紙芝居公演に加えて足湯マッサージをさせて頂こうと準備をしていた。この仮設住宅での活動内容は、後でご紹介する遠征メンバーたちの言葉に詳しく記録されているのでご覧頂きたい。仮設住宅施設員中島さんのお話によると、宮古の景勝地浄土ヶ浜では津波が40mの高さまで上って来たので、高台であるにも関わらず人的被害が出たそうだ。中島さんはぜひ帰り道に見て来て欲しいと仰った。閉会後、私たちは浄土ヶ浜を目指した。不案内の土地だったため海岸までは行けなかった。しかし県道248号線上で停車して、宮古港に臨む港町周辺地域の甚大な被害を受けた様子を見ることになり言葉を失った。町を囲う丘の上は無事だったが平地は浸食されていた。あまりの惨さに目を伏せたくなったが、被災された方々の痛みを知り、心に寄り添えるようになるために、私たちには被災状況を目に焼き付けることが必要だった。

 

 

2011年05月20日 河北新報社掲載記事 ドキュメント大震災「その時 何が」(7)残された遺体(福島・大熊)搬送を阻む放射線/基準すらなく撤収


 東京電力福島第1原発が立地する福島県大熊町で、震災の死者とみられる男性を収容しようとした県警が遺体の放射線量が高いため搬送を断念したと、3月29日に報じた。遺体は4月1日に収容された。第1原発20キロ圏内で行方不明者の本格捜索が始まったのは、震災から約1カ月後。この間、救出の道は閉ざされ、数百もの遺体が置き去りにされていた。大熊町内、福島第1原発の南5~6キロにある作業所の敷地内で、成人男性の遺体が見つかったのは3月27日だった。「亡くなっている人がいる」。通報を受け、福島県警の機動隊員や検視官ら15人が現場に向かった。放射能を警戒し、放射線計測班も同行した。遺体の表面の放射線量を計測すると、水で洗い流す「除染」が必要な10万cpm(cpmは放射線量の単位)を大幅に超えていた。第1原発1号機の爆発が起きた3月12日、原発から20キロ圏に避難指示が出たのを受け、県警は捜索や遺体の搬送を中断していた。圏内に入るのは緊急性が高い通報があった場合だけだ。汚染された遺体をどう扱うべきか、その基準さえなかった。機動隊員らは遺体を遺体袋に入れた上で、建物内に移し、撤収するしかなかった。男性の遺体収容を断念した後、県警は厚生労働省と対応を協議。(1)業務で放射線を扱う人の許容限度を参考に、捜索が可能かどうかを判断する(2)遺体表面の放射線量が10万cpmを超えた場合は、現場で除染してから搬送する―ことを決めた。5日後の4月1日、機動隊員や検視官、放射線計測班らが再び大熊町の現場に入った。外気から遮断して安置していたため、遺体の放射線量は下がり、除染の必要はなくなっていた。南相馬市に搬送。外傷はなく、病死と診断された。県警や警視庁が、南相馬市の南部や楢葉町など原発10~20キロ圏で、本格的な捜索を始めたのは4月7日のことだ。大熊町や浪江町請戸など10キロ圏内の捜索の開始は14日まで遅れた。二本松署地域課の吉津敬介警部補(35)は、4月中旬から請戸での捜索に加わった。防護服にマスク。「動きを制限され、手でがれきを一つ一つどかした。放射線の数値も気になり、神経をすり減らしながらの過酷な作業だった」と振り返る。原発周辺を中心に、福島県では約10万人が避難生活を強いられた。行方不明の家族を捜す間もなく、古里を離れざるを得なかった人たちは、悔しさ、もどかしさを募らせながら捜索活動の開始を待つしかなかった。姉が行方不明になった浪江町請戸の女性(56)は「捜索に入るのが遅過ぎた」と語る。避難先の二本松市から貴重品を取りに自宅へ戻った3月下旬、持参した線量計の数値は3時間で1マイクロシーベルトにも満たなかった。「捜してあげればよかったという後悔の思いが消えない。誰のせいでもないのは分かっているが、何かに怒りをぶつけたくなる」20キロ圏にある南相馬市原町区の新川芳秀さん(61)は今月13日、避難先でDNAの生体資料を県警に提供した。津波にのまれた父親と兄の遺体は確認されたが、母親がまだ見つからない。県警によるDNA鑑定に望みを託す。「危険を顧みず捜索に当たってくれて感謝している」と、新川さんは手を合わせる。浪江町請戸で捜索した吉津警部補は言う。「もし、震災直後に捜索できていれば、助けられた命もあったのかと思うと、胸が痛くなる」県警によると19日現在、原発20キロ圏内で見つかった死者は365人。まだ約380人が行方不明のままだ。(橋本俊)(※この記事は2012年4月19日に河北新報社より著作物利用許諾を得て転載させて頂いています)

 

 

 東日本大震災により甚大な被害を受けた被災地(復興地)に対して世界中が心を痛めている。震災直後の日本人の秩序を重んじる行動、思いやりの気持ち、助け合い、譲り合い、親切心、マナーの良さが海外で話題となった。しかしその評価の裏側では火事場泥棒もあり不正が多発していたことも残念なことだった。/週刊ダイヤモンド2012年3月10日第100巻10号「だれが復興を殺すのか」掲載記事「混乱に乗じて産廃をポイ捨て〝ごみ箱〟と化す被災地の現実(ジャーナリスト窪田順生氏)」より一部抜粋。「こういうものは産廃処理の常識で言えば東北でポイ(不法投棄)するのが定石。東北はもともと関東の産廃を不法投棄するスポットが多い。有名なのは岩手と青森の県境だが、震災以降はそこまで行かなくても、至る所にがれきの山がある」実はあまり知られていないが、被災地で、産廃の不法投棄が深刻化している。福島でがれき処理のボランティアをしていた男性が語る。「集積所には、明らかに津波で出ていないだろうという鉄くずなどが日に日に増えていきました。夜間も警備をしましたが無駄でしたね」(中略)行き場を失った大量の鉄鋼スラグも彼らの言うように〝ポイ〟されているのか。望まれないものを押し付ける―。このような損な役回りから東北を解放しないことには、どんな復興も意味はない。/週刊ダイヤモンド2012年3月10日第100巻10号掲載記事「放射線がゼロでなければノー 漂流するがれき広域の処理の行方」より一部抜粋。「神奈川県の黒岩祐治知事は昨年12月、岩手県宮古市の震災がれきを受け入れる意向を表明した。ところが、最終処分場のある横須賀市で地元住民の猛反対に遭い、立ち往生。1月に知事自ら住民への説明を行ったものの会場は大荒れとなった。同席した松本課長は参加者の『(放射線量が)ゼロでなければ駄目。どんなに低い数値であっても地元の線量に足し算されるのは、嫌だ』という発言を聞いて、衝撃を受けたと語る。」(※松本課長=岩手県災害廃棄物対策課)詳しくは週刊ダイヤモンド2012年3月10日第100巻10号をご覧頂きたい。東日本大震災にまつわる諸問題について深く追求を続ける週刊ダイヤモンド取材陣の精力的な取材活動には敬服するばかりだ。(※この文中内の記事は2012年4月23日に株式会社ダイヤモンド社より著作物使用許諾を得て引用させて頂いています)

 

 

2012年4月3日 北陸中日新聞掲載記事 金沢市長に脅迫状「がれき受け入れたら殺す」


 30日の消印 差出人の名前なし 東日本大震災で生じた震災がれきについて、受け入れの可能性を検討している金沢市の山野之義市長宛てに「がれきを受け入れたら殺す」などと書かれた脅迫状が届いていたことが分かった。市は金沢中署に相談し、3日午後に被害届を出す。同署は脅迫の疑いで調べる。市などによると、脅迫状ははがきで、2日午前に他の郵便と一緒に届いた。消印の日付は3月30日。表面には手書きで市役所の住所と山野市長の名前が書かれ、差出人の名前はなかった。裏面には印刷物を切り貼りした文字も交え、脅迫文が書かれていた。市長の顔写真を印刷した画像も貼り付けられ、市は「クレームを超えた悪質なケース」と判断して署に相談した。3月上旬にも同様の趣旨の脅迫状が市長宛てに届いていた。がれき処理をめぐり、市長の元にはこれまでも賛否両論のメールや手紙などが寄せられており、市長は取材に「いろいろな考え方があるのは承知している」とした上で「私の思

いだけで動く問題ではない。議会などでの議論を踏まえ、手続きを進める」と述べた。市は4月に放射線、廃棄物処理の専門家や石川県の担当者らで「震災がれき受け入れ可能性検討会(仮称)」を設置。夏ごろまでに受け入れに向けた検討を重ね、周辺住民や市民の意見を踏まえた上で是非を判断することにしている。(※この記事は2012年4月17日に中日新聞社より新聞著作物使用許諾を得て転載させて頂いています)

 

 この記者会見で山野之義金沢市長は「オールジャパンで取り組むべきだ」という熱いメッセージを発せられた。岩手県、宮城県は少しずつ復興に向けて動き出しているのに、福島県では原発事故の影響で未だ手が付けられていない地域がある。避難を余儀なくされた方々は理不尽な現実にずっと向き合っておられる。被災された方々は私たちの仲間だ。その大切な仲間が傷を負っているのに、無関心でいたり、協力心がないことは恥ずかしいことだと私は思う。今こそ同じ日本人として、痛みを分かち合う心が求められているのではないだろうか。被災した地域のことを〝知っている〟だけだった頃の私は、心を痛めてはいるが、日々の自分の生活に追われていることを言い訳にして、傍観者のように眺めているのと同じだった。寝袋にくるまり復興地に身を投じる覚悟も無かった。こうしている今もどこかで仲間は苦しんでいる。すべてを失い自分だけが世界から取り残されていると感じているかも知れない。私に、復興地で過ごす方々のお気持ちをより深く〝分かっている〟ことが出来ていたなら、現地でもっと心に寄り添い痛みを分かち合えることが出来たかも知れなかった。私は皆さんにお願いしたい。それは、出来るだけ早い時期に復興地を訪れて頂き、愛すべき東北が傷ついた様子とその地で生きる方々の気持ちを全身で感じて来て欲しい。そうやって日本中に痛みを分かち合う心が広まって行けば、孤独と闘っている仲間の心を支えることが出来るかも知れない。同じ思いを共有出来ていたなら復興地の復旧速度も早くなるかも知れない。まさに今〝オールジャパン精神〟が求められているのではないだろうか。

 

 動画サイトYouTube(http://www.youtube.com/)には、東日本大震災の発生時に撮影されたリアルタイム映像が投稿されている。すべて避難された方々の手よって撮影されたものだ。映像は自ら大震災を体験しているかのように感じられる鬼気迫るものばかりだ。あの日何が起きていたのか、被災された方々の気持ちに寄り添うための一歩になると思う。また、NHKスペシャルで放送された「3.11 あの日から1年 仮設住宅の冬 いのちと向き合う日々」が再放送されるか、NHKオンデマンド(http://www.nhk-ondemand.jp/)で視聴が出来るようになればぜひご覧頂きたい。仙台市に拠点を置く河北新報社のウェブサイト(http://www.kahoku.co.jp/)にも膨大な数の取材記事が掲載されている。

2012年 新緑

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