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Soma City Fukushima 2013.3.31
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Odaka Area Fukushima 2012.9.23
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IAEA Photo Essays
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Soma City Fukushima 2013.3.31
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Your justice

表川なおき

 

 

 いつか生まれる君に わたしは何を残しただろう (岩井俊二作詞「花は咲く」より)

 

 

 2013年12月31日、1年を締めくくる大晦日の夜に第64回NHK紅白歌合戦は開催された。司会は嵐のメンバーと、大河ドラマ「八重の桜」主演の綾瀬はるかさんが努めた。前半戦の締めくくりには、福島第一原子力発電所事故により会津若松市で避難生活を続ける学生さんたちと綾瀬さんとの対談映像も紹介され、NHK東日本大震災プロジェクトのテーマソングである「花は咲く」(作詞:岩井俊二/作曲編曲:菅野よう子)を出場歌手全員で合唱することになった。感極まった綾瀬さんは泣きながら曲紹介をすることになり、観客からの声援を受けて曲紹介を行った。「―― 福島の復興、東北の復興、そして子供たちの夢はいつかきっと花開くと信じて・・・”花は咲く”」綾瀬さんは被災された方々のことを思って、声を詰まらせながら進行用のコメントを読み上げた。その綾瀬さんのありのままの姿に多くの人が感動した。素朴でもいい、かっこ悪くてもいい、何より人間らしい暖かな感情をもって誰かのために尽くそうとする心は美しい。被災された方々に心から笑顔になれる日が1日でも早く訪れるよう願ってやまない。

 

 2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震による地震動と津波の影響により、福島第一原子力発電所で原子力事故が発生した。これにより原発から10km圏内に住む住民に避難指示が発令された。翌12日15時36分、1号機が爆発した。これを受けて避難指示対象地域は20km圏内へと拡大した。政府が国会に報告する「東日本大震災からの復興の状況に関する報告」によると、2013年9月の時点で、放射能汚染によって住み慣れた家を離れて避難生活を続けている方々は約8万1000人に達するそうだ。事故から2年経ち、放射能濃度の低下や除染作業により警戒区域解除を経て自宅へ帰ることができた方々もあったが、年間積算放射線量が50mSvを超える帰還困難区域や、20mSvを超える居住制限区域に住居を持つ方々は帰宅できず、今も心身共に過酷な状況下で避難生活を強いられている。原発事故による風評被害に苦しんでいる方々もたくさんおられる。東日本大震災は被災された方々だけの問題ではなく、被災をしていない大多数の日本人にも目を逸らしてはならない問題を投げかけている。

 

 2012年9月22日、私たち(表川なおき・高輪眞知子)は福島県南相馬市小高区へ向った。この地域は原発事故によって警戒区域指定となり、2012年5月にようやく警戒区域指定解除準備区域となった地域だった。梅雨も終り朝晩の気温差が感じられる時節だった。その週は全国的に雨模様で強い雨に見舞われる地域が多くあった。あの日、南相馬市では高さ20メートルにも及ぶ津波が防潮林を乗り越えて行き平野部へ流れ込んだ。南相馬市は福島県内で最大の人的被害があり、津波による直接死と震災関連死による死者は1064名(福島県HP・2013年8月14日更新)にも及んだ。南相馬市までの道のりは、警戒区域指定による道路状況と土地勘が乏しいこともあり、東北自動車道の二本松ICから北東へ向うルートは選ばず、福島西ICで降り国道を頼って太平洋へ向かうルートを選んだ。私たちが南相馬市へ着いたのは18時頃で宵の口の空からは小雨が降っていた。宿舎へ着く頃には小雨はしっかりとした雨へと変わって宿舎へ搬入する荷物を濡らした。部屋に入ると、ようやくたどり着いたという安堵と、予てから行かなければと思っていた所へ来ているのだという実感が湧いてきて、不意に感傷的な心持ちになってきた。それくらいに今回の訪問は私にとって重い訪問であった。

 

 部屋の空気を入れ替えるため少しだけ窓を開けると硫黄のような匂いが入ってきた。私は近くに温泉でもあるのだろうかと気を和ませたが、あとで宿舎の方に訪ねると温泉施設などはなく、宿舎のすぐ隣は葬儀場だと教えてくれた。私はここでどれだけの方のご葬儀が行われたのだろうかと勝手な想像をして気持ちが暗くなった。浴室へ向かいしばらく放心していると再び感傷的な心持ちが迫ってきて心細さを感じてきた。そして静かに迫って来るように、自分の体が何かと一体となっていくような不思議な感覚に包まれていった。私はしばらくその不思議な感覚を打ち破らないようにしていた。おこがましい表現かも知れないが、犠牲者の方々の無念の気持ちが私を包んで、何かしらメッセージを届けてくれているようにも感じた。やがて遠い少年時代の記憶を思い出している時に誰かの呼びかけにハッと我にかえるように、つけっぱなしのテレビからニュースキャスターの声が聞こえてきた。一度だけ振り返り浴室を出ると、テレビから聞こえていた声はいつしか天気予報士の声に変わっていて、明日の南相馬市の空模様は大雨であると知らせてくれた。

 

 翌朝23日は天気予報の通りに早朝から雨が降っていた。この日は南相馬市ボランティア活動センター(NPO法人災害復興支援ボランティアネット)の活動に参加させて頂くことにしていた。宿舎を出発する頃には雨は徐々に強い雨へと変わってきたので、用意して来た雨具では到底間に合わないと思い、宿舎近くの商店で完全防水のヤッケを2人分調達した。私たちは国道6号線を走り、南相馬市ボランティア活動センターがある小高区本町へ向った。日曜日であるにも関わらず、復興作業の現場へ向う作業車や大型ダンプ車が多く走っていた。海から遠く離れた内陸では津波による被災はなく、地震による家屋倒壊も見受けられなかった。連休のショッピングセンター街は全国のどこの地域とも変わりはなく賑わっているようだった。私たちは郊外へと車を進めた。太平洋から5kmほど離れた国道6号線を走る道々では、津波で被災した土地ばかりを見ることになった。防潮林の茂っていたはずの海沿いの県道も遠くに見えた。インターネットで探すと被災直後の写真や映像を確認できるが、津波によって壊された家屋などは無茶苦茶になってしまい重機で撤去されているため、今は海へ向って遮るものがないまま広い緑色の土地が続いている。左右に見える土地には1年半も掛けて雑草が茂っている。奥まった少しだけ高所のところは、地震による家屋への被害はあっても浸水を免れることができたようだった。持ち主があるのだろうか、撤去されず小川に頭から突っ込んだままの普通車や、広い土地にポツンと取り残されている傷ついた軽自動車もあった。背後の丘に守られて津波を避けることが出来た家屋や、1階部分が津波によって抜き取られ、2階部分がようやく鉄筋柱で支えられている飲食店もあった。

 

 報道番組で見る被災地の様子と、実際に自分の目で見る様子とはまったく違うものだということは行く先々で感じることだった。活動先で出会うボランティアの方々もよくそのことを口にする。もちろん地域によって被災状況が違うのだから目に見える様子にも違いはあるが、その地域が背負ったものが伝わってくるかのように独特な空気があって、現地に来てみないと分からなかったことの方がはるかに多いと感じる。私は現地の方々の気持ちを改めて考えてみた。しかし感受性を総動員して思いを巡らしても、被災するということを体験してない私などには到底分かり得ないことだと思った。心清き私の友人は「何かしなければ」と言う。私も何かしなければという気持ちを持って現地に来たけれど、果たしてこんな私に何が出来るのだろうかと思うこともあった。「分かっているようなふりをして何も分かっていない。考え深げなその表情も嘘ばっかり・・・」そんな自問自答が続いた。しかし足踏みばかりしていては何もしていないのと同じだと考え直し、思いをぶつけるかのように現地を訪ねて行った。

 

 旧警戒区域内の小高区中心地へ辿り着くと、周辺の様子は悪天候でもあったせいか薄暗い印象だった。鉄道の線路を越える陸橋から町を見渡すことが出来たが、ほとんどの住居には明かりが灯っておらず、人がまったく住んでいないことが分かった。まるで時間が止まってしまったかのような町で、交差点の信号機だけが動いている。赤から青へ、そして黄色へと規則正しく点灯している様子が不自然なくらいに、この町は動いていなかった。ホームセンターやガソリンスタンドもあったが、利用者がいない町で営業再開などあり得なかった。原発事故による放射能から身を守るために住み慣れた町を離れざるを得なかった方々は、今どんな思いで暮らしておられるのだろうか。ひと気の無くなった町に今は悲しい雨が降っている。これが訪ねなければ知ることもなかった南相馬市小高区の現実だった。午前8時、車内で雨具のヤッケに着替え、南相馬市ボランティア活動センターで受付を済ませた。皆さんと同じように、黄色い布テープに黒色のマジックで自分たちの名前を書いて胸と肩に貼り付けた。そして外に出て20畳ほどのテントの下にぎゅうぎゅう詰めに集まっているボランティアの方々の中に加わった。雨はいよいよ勢いを増して来て、白糸の滝のような真っ白な土砂降りがテントを包囲してゆき、テント内はざわざわとしていた。

 

 やがてセンター代表の松本光雄さんの挨拶が始まり、これまでの活動のあらましを一通りお話しして下さった。その中で東京電力に対するお考えも述べられ「今日は東電の社員の方も作業を手伝いに来てくれている」との紹介もあった。振り返っても東電社員の方がどこにいるのか分からなかったが、散会後見渡すと、上下紺色の作業服を来た20才代半ばぐらいだろう5人の若い人たちが、ボランティアさんたちの輪から外れたところに立っていたので分かった。言うまでもないが、避難生活を強いられている方々にとっては怒りをぶつけたくなる相手かも知れない。東電社員というだけで、何かしら特異の目で見られることを覚悟して来ているこの若者たちの心の中はどんなものなのだろうか。もちろん会社からの指示で来ている風だった。顔には表情がなく、また表情をつくることも許されていないかのように全員口を結んでひっそりとしていた。仲間内で談笑などしていようものなら、もしかしたら一般のボランティアさんとの間でトラブルが起きるかも知れなかった。表情が作れないという表情だった。私は、この旧警戒区域に全国から集まるボランティアさんたちと東電の若手社員さんたちが、同じ活動に参加していることが不思議に思えたり、当然のことのように思えたりして考えがまとまらなかった。ともかく私はこの若い東電社員さんたちが悪いわけではないのだと思うことにした。

 

 この南相馬市ボランティア活動センターでは、依頼者の要望に応じてボランティア人材を派遣している。この日は避難生活を送られている方から、長期間に渡り家屋敷地内と広い農地に繁っている雑草を刈ってほしいとのご依頼があった。募集人数を大幅に上回るボランティアさんたちと共に私たちもその作業に参加させて頂くことになった。そして皆さんと一緒に出発の準備に取りかかり、草刈り用具を軽トラに積み込んだりしながらコミュニケーションをとった。流暢な日本語を話すアメリカ人女性も参加していた。草刈り作業と言えば草刈り機が一番役にたつのだが、私たちは草刈り鎌部隊に配属となった。アメリカ人女性は草刈り機を扱えるようで、燃料タンクに油を注ぎエンジンを掛けて動作を確認していた。そんな様子を見ていると2011年12月の岩手県陸前高田市のがれき撤去作業で、ヨーロッパ人の青年がつるはしを巧みに扱って、地面に埋まったブロック塀を掘り起こしていた姿を思い出した。その青年は同伴者もなく1人だけで作業に参加していて、コミュニケーションも苦手な風の色白な美青年だった。この青年は、日本の被災地復旧復興のため黙々と作業に打ち込んでいた。私は日本人としてこの青年に感謝の気持ちを持ったと同時に、このような善良な青年が日本の若者の中にどれくらいいるだろうかとも考えた。恥ずかしいことに、2013年夏頃から一部の不謹慎な若者らによる、飲食店や地下鉄ホーム等で撮影した非常識写真のネット投稿が流行った。この若者たちは震災があったことも忘れているだろう。そう考えると、私たち大人たちも忙しい毎日に追われているうちに、いずれ震災のことも原発事故のことも風化させて行くような気がしてならない。

 

 雨は不安定な調子で強くなったり弱くなったりしていた。出発の準備を終えた私たちボランティアB班は、リーダーの車を先頭にして出発した。車のワイパーは忙しく動いている。縦列して現地へ向う車の後に私たちの金沢ナンバー車も続いた。「尾張小牧」「川崎」「春日部」「習志野」などのナンバー車の中には大阪ナンバー車もあり、私は皆さんが遠くから駆けつけていることに心が打たれた。私たち一行は合板で窓を封鎖したコンビニエンスストアを横目に見て山あいの道へ左折した。先頭を走るリーダーが、警戒区域指定解除ではあるものの、常時立ち入り禁止の看板とパイプ格子で封鎖されている場所で車を降りて封鎖を解除して下さった。ここはテレビでよく耳にする「浜通り」であった。この境界から進入してしばらくすると様子が変わった。進行方向の左側には補修工事を行っている防潮堤があり、地盤沈下をしているのか防潮堤と地面が2mほど大きく上下にずれていた。間近に見ても立派な防潮堤でその先の海はまったく見えない。悪天候のためか作業は行われておらず、無人のショベルカーが2機、雨に打たれている。防潮堤のそばにはひょろ長い数本の松が不規則に隆起した地面に残されている。車道は所々砂利で新たに舗装されてはいるが、それでも地面は凹凸が激しく、水溜まりも深く車の進行を遅らせた。道の右側の土地は広範囲に地面がガクンと下がっているようだった。そこに大雨も加わり湖のイメージを持つくらいの湿地が広がっていた。中が抜き取られ空洞となったコンクリートの建物が40度くらいの角度で傾斜して地面にのめり込んでいる。コンクリート製の橋の欄干はもぎ取られたままになっていて、設けられた祭壇にはお花とお酒が供えられている。この一帯は想像以上に隆起と地盤沈下が激しく、そこへ津波による破壊も加わり、深刻なダメージを一身に受け止めたのだという重い雰囲気に包まれていた。そしてつい最近まで放射能汚染の脅威にも晒されていた。私は大変なところへ来てしまったと感じた。

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GIGAZINE http://gigazine.net/news/20110315_sievert/ より

 

1シーベルト(Sv)= 1000ミリシーベルト(mSv)= 100万マイクロシーベルト(μSv)

 

◆「ミリ」と「マイクロ」の違いを頭にたたきこみましょう

 ニュースで「8217マイクロシーベルト(μSv)」「1941マイクロシーベルト」などと聞くととてつもなく大きな数のような気がするかもしれませんが、「マイクロ」というのは「ミリ」のさらに1000分の1。1マイクロシーベルトは1シーベルトの100万分の1です。200万マイクロシーベルトで5%致死線量なので、2000マイクロシーベルトでも5%致死線量の1000分の1です。大量の放射線は人体に有害ですが、微量なら人体に影響はありません。万一の場合を考えて、できる限りの対策を取ることは重要ですが、関東などに住んでいる人は「マイクロシーベルト」というのはとても小さな単位であるということを心にとめて、むやみに焦って行動しパニック状態におちいらないよう気をつけたいものです。

 

◆短期間被ばくの致死線量

 人間は地球上のどこに住んでいても常に放射線を浴びています。世界で平均すると、人体は年間およそ2.4ミリシーベルト(2.4mSv:1シーベルトの1000分の1×2.4)の自然放射線に常にさらされています。放射線を短期間に全身被ばくした場合の致死線量は、5%致死線量(被ばくした人の20人に1人が死に至る線量)が2シーベルト(2000ミリシーベルト)、50%致死線量が4シーベルト、100%致死線量が7シーベルトと言われ、200ミリシーベルト以下の被ばくでは、急性の臨床的症状(急性放射線症)は認められないとされています。ここで言う「短期」とは約1時間ほどと考えてください。普通に生活していて1年間に吸収する放射線量の1000倍の量を1時間で吸収すると、20人に1人が亡くなる程度の危険性ということです。1シーベルトだと吐き気を感じる、2~5シーベルトで頭髪が抜ける、3シーベルトを超えると30日以内に50%の人が亡くなる、とも言われます。2011年3月15日11:00に発表された福島第一原発3号機付近の「400ミリシーベルト毎時」という数字ですが、ここで何の防護もなく1時間過ごした場合の被ばく量が、5%致死線量(2シーベルト=2000ミリシーベルト)の5分の1にあたります。つまりこの5倍の線量に約1時間さらされた場合、20人に1人が死に至る可能性があります。

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 ボランティア草刈り作業の場所は海から400m程離れた丘陵地で、すぐそばに浪江町との境界があった。この地域は原発事故を引き起こした福島第一原子力発電所から12km圏内に位置しており、年間積算放射線量が20mSv以下となることが確実であることが確認され、2012年4月12日より避難指示解除準備区域となった。しかし完全に帰宅して生活を再開することは許されず、家財の出し入れの為に昼間の帰宅のみ許可されている。夜は進入禁止なのだ(2012年9月現在)。こうした旧警戒区域では無人の家屋への空き巣が多発していたことも悲しい現実だった。この地域は丘陵地であったため幸いに津波の被害はなく、地盤もしっかりしているので建物が倒壊するようなことはなかった。ただし家屋内部はいくらか被害があったように思う。あとは今も続く放射能の不安だ。2012年3月20日に共同通信社が報じた記事によると、原発事故の警戒区域に指定されている浪江町で、重機を区域外に持ち出すために、事業者向けの立ち入り許可を受けて入域していた50才代の女性が、急に「気分が悪い」と訴えてトイレに向かい意識を失った。女性は病院に搬送されたが午後1時に死亡したそうだ。死因は呼吸器不全だったが直接的な死因となったものは何だったか分からないままだ。放射能はたくさんの方々を苦しめている。故郷を追われた方々の無念を思うと申し訳ない気持ちになる。目に見えない放射能の恐怖を背負った方々の気持ちは計り知れないものだ。こうして現地に来てみることで、ようやく私たちは原発事故と向き合うスタートラインに立てたような気がした。

 

 どちらを見てもひと気のまったく無くなってしまった無人の地域に今はひたすら強い雨が降っている。土砂降りだ。町全体を洗い流そうとするかのようにザアザアと降り続けている。大気中の放射性物質は木々や地面、家屋などあらゆるところに付着する。雨粒は大気中の放射性物質を含んで地面や溝川に注ぐ。地面に浸透したなら除染しなければならない。広島へ投下された原子爆弾は放射性物質を含んだ黒い雨を降らせ多くの人々を被爆させた。黒い雨は爆風や熱線の被害を受けなかった地域にも降り広範囲に深刻な放射能汚染をもたらした。大気中の放射性物質は雨風と共に人体へも攻撃を仕掛けて来る。今、私が見上げる灰色の空からはいったいどれくらいの放射性物質が降っているのだろうか。年間積算放射線量が20mSv以下の避難指示解除準備区域ということだが安心出来るものだろうか。現地の方々が感じておられるように、私たちも自分の身は自分で守らなければならない。こういう区域での活動を含め、被災地でのボランティア活動は何が起ころうと自己責任、自己完結できなければならない。土砂降りの雨は、住み慣れた家々を追われた方々の怒りの雨のようにも感じられた。

 

 

 放射能が降っています。静かな夜です。

 wago2828 2011-03-16 21:30:46 * 詩人 和合亮一さん(@wago2828)のツイートより

 

 

 「黙祷!・・・直れ」作業開始前にリーダーからの声かけがあり、全員で海の方向へ1分間の黙祷を捧げた。今思い返しても背筋がスキッと伸びる瞬間だった。なんと心が引き締まったことか。こうして声をかけて下さらなければ、私は何となく作業に取りかかっていたはずだった。黙祷を終えたあと、今日初めて会ったばかりの方々と視線を交したが、一人残らずみんな使命感を持った目をしていた。私は「さあ頑張ろう」と呟いて草刈り鎌を手に取った。草刈り機を扱う部隊は二手に分かれて、家屋敷地内に繁る雑草と、道路をはさんだ向こう側の農地に繁る雑草のジャングルの方へ進んでいった。雑草は作業にあたる男性たちより背が高く180cm前後の高さがあった。等間隔で並んだ10数台の草刈り機のエンジン音が一斉にあたりに響き出した。北海道から野宿しながらバイクを走らせて、4日間かかってボランティアセンターに辿り着いたという20才代前半頃の青年もあった。彼は髭も剃らず顔も脂ぎって光っており、申し訳ないけれど、男の勲章だと言わんばかりに汗臭かったのだが、前年の今頃にもこのボランティアセンターの活動に参加したことがあったらしく、きびきびとした動きで軽トラックから道具を下ろしたり、顔なじみのボランティアの方と談笑したりしていた。他のボランティアさんの中にも髭を生やし放題の男性もあって、よく見れば野性に目覚めたかのような日本男児がたくさんいた。ちょっと失礼な言い方になったかも知れないが、こういう厳しい現場にありながら、みんな自身のことは顧みず作業に打ち込み、和気藹々と活動しているので、私はこの被災地においてこれ程頼りになる人たちはいないだろうなと思った。まさに天使のような優しい心を持った「髭を生やした天使たち」だ。

 

 復興が目に見えて進んでいないと言われ続けて3年を迎えようとしている。現地へ来てみると分かるが、被災者の方々が望むような復興はなかなか進まないまま4年目に向かうことが予想される。誰が復興を遅らせているのだろうか。その間も全国から集まるボランティアの方々はずっと復旧活動を続けて来た。中には自分の貯蓄を食いつぶし、食事はカップラーメンで済ませてボランティアセンターに雑魚寝で寝泊まりしている方もある。2011年12月に、遠野まごころネットの活動に参加した際には、遠野浄化センターの裏手に建てられた80畳ほどのプレハブ2棟に、たくさんの男性女性ボランティアさんたちが寝泊まりしていた。全員午前6時のサイレン音で起床する。活動でくたくたになってとにかく夜は早く寝る。22時の消灯後は携帯電話の利用は禁止で、使いたいときは冬ならマイナス5℃の野外で使わなければならない。シャワーは各自15分交代だ。私たちが今回参加している南相馬市ボランティア活動センターも2階が無料宿泊所になっていてボランティアさんたちが寝泊まりしているそうだ。震災直後から減ってきてはいるだろうけれど、こういう方々は各施設に必ず何人かおられる。この方たちの心は誰よりも清く、誰よりも美しく、天使のような優しい心を持っている。私たちにこれほどの情熱があるだろうか、暖かい心があるだろうか。髭を生やした天使たちに対して私たちはいったい何者なのだろうか。

 

 1年半も生え放題となっていた雑草たちはジャングルのようになっていた。枯れた雑草は重なるように地面にへばりついていて歩きにくい。草刈り機部隊の一部が家屋敷地と接する3m幅の溝川の斜面を刈り始めた。斜面は45度くらいに傾斜していて雨のせいで滑りやすくなっている。溝川は厳密に言えば安全とは言えない。しかしセンターの事前調査により「問題ない」として積極的に刈り進んでいく。私は、小学校の教師を志しているという大柄で人なつっこい感じの青年と一緒にその溝川の斜面に降りて、刈り終えた雑草を両手いっぱいに抱え込んで、溝川上の道路に近い場所に集めていった。防水手袋をつけていたけれど、土砂降りの中ではまったく意味がなく、防水ヤッケを着た全身も汗と雨でびしょ濡れになっていた。被災された方々のことを思えばこんなことを考えてはならないだろうけれど、私は土砂降りで濡れた雑草を両手いっぱいに抱えている時、被爆でもしないだろうかと考えた。実際はどうなっているのか分からない。雨で線量が低下していても何らかの形で被爆する危険だってあるのだった。しかしボランティアさんたちは何の疑問も持っていないかのように作業に取り組んでいる。45分おきの休憩ではずぶ濡れの洋服を着替えたり、携帯灰皿を片手にタバコを吸って笑顔で談笑していたり、暗い顔をした人なんてひとりもいないのだった。

 

 ほんの一服ではあったけれど、休憩時間にボランティアの方々と和やかな雰囲気で交流でき気持ちが良かった。そして休憩が終わると思い思いに動き始めて草刈り機のエンジン音が鳴り始めた。リーダーが私たちに「お願いしますね」と言ってニコッと笑った。私はそのニコッした表情にあるメッセージを感じ取った。それは作業の方をよろしくということ以上に、一期一会となる私たちに被災地の現状を体感する数少ない証人として、地元に帰ったら周囲の人に伝えてよ、というメッセージだった。なぜそう感じたかというと、陸前高田でも遠野でも大船渡でも、ボランティアセンターの方々は口癖のように「被災地の現状を周囲に知らせてほしい」と言っておられたからだった。特に今回の私たちは素手で作業をしているので、草刈り機のようなはかどる作業ができていない。あまり役に立てていないと感じるのも不甲斐ないものだったが、参加することに意義があり、こうして被災地の現状を拙い言葉で広く知らせることができているのなら、リーダーの期待に応えられているかも知れない。この南相馬市小高区は原発事故から1年半も自由に立ち入りができなかったのだから、他の町より大幅に復興が遅れている。というより「まだ始まってもいない」というのが正しい表現かも知れない。だからこそ今から必死になって取り組んでいかなければならない。風化させてはならないと言うより、話題にもならないままひっそりと消えて行こうとしている被災地があることを伝えていかなければならないのだ。

 

 お昼前だったろうか、雑草を刈り終えた家屋玄関前に1台の車が入ってきて駐車した。車から降りて来られた方はこの作業の依頼者であるご家族で、小学1年生くらいの男の子とそのお父様とお婆様だった。出発前の打ち合わせ時に、依頼者は現在仮設住宅で避難生活を送られているとだけ知らされていた。お婆様は深々とお辞儀をされて、私たちボランティアの方へ向って「ありがとうございます。よろしくお願いします。」と声をかけられた。慌ててこちらも深々とお辞儀して、返す言葉も見つからないまま繰り返しお辞儀をした。男の子は嬉しそうな笑顔で背中には小さな遠足用のリュックサックを担いでいて、お父様とお婆様と一緒にお家の中へ入っていった。私はこの男の子の笑顔が今でも忘れられないでいる。ご家族は30分もしないうちに家屋から出て来られ手荷物を車に積んで出発された。警戒区域指定解除準備区域という物々しい名前を付けられて、長年住み慣れた家であるのに住むことは許されず日中のみ出入りが許されるなんてあまりに理不尽だ。この「許されない」とか「許される」という言葉を使うことすら申し訳なく感じるが、有無も言わさず生活の場を奪われることがどれほどのことか、私は男の子の笑顔があまりに屈託なく明るいものだったので、この幸せそうなご家族の生活を奪った原発事故がこの上なく恨めしいと感じた。

 

 復興が進まないなか、被災された方々はずっと耐えている。それを思えば細かいことは気にしてはいられない。南相馬市ボランティア活動センターでは、事前調査にて毎時0.25μSv以下であると測定された地域に限定して活動を行っている。だから安心して活動すれば良いのだろうけれど、放射能汚染で苦しんだ地域など厳しい現場でのボランティア活動については、それを選択して活動参加を決断した個人に責任があるので、何があろうと自己責任・自己完結するという覚悟がなければならない。地元に戻って何かしら体に異変があろうと自己完結して誰にも迷惑はかけてはならない。賛否両論あるだろうが、こうして全国から集まるボランティアさんたちや、政府の対応にしびれを切らして独自に活動する地域自治体の方々が居なければ、何も進まないのだということもはっきりと分かった。皆さん犠牲的精神を持っているし、なりふり構わず作業に打ち込んでいる。どこへ行ってもそうだった。どんなときも真実は見えないところにひっそりと息づいている。だからこそ現地に行き被災者の一瞬一瞬の呼吸がどんなものであるか感じなければならない。でなければ真に被災された方々の心に寄り添うことは出来ないだろう。少しでも元通りに戻せるものなら行って力になろう。奮い立たそうとしている心があるなら勇気づけてあげよう。悲しい心境があるなら受け止めて支えなければならない。こうして私たちは南相馬市小高区での作業を終えたが、私はセンターへ戻る車内であることを思い出して反省していた。それは、依頼者のご家族が車を駐車された玄関前の雑草を抜き忘れていたことだった。それはわずかなまでの雑草だったが、いずれまた近いうちに家屋内の整理や思い出の品を取りに戻られるご家族にとって、玄関前こそすっきりと気持ちの良いものにしておかなければならなかったのに、他の作業を優先していたために忘れて帰って来てしまった。この気遣いの足りなさが今でも悔やまれてならない。

 2013年3月29日、私たち(表川・高輪)は再び福島県南相馬市に向かった。3月下旬ともなれば地元金沢は春の雪解けを待つ時節だ。福島県の日中の気温は10℃前後でまだまだ寒い。これまでの活動では「災害派遣等従事車両」として高速道路通行料が無料となる制度を利用してきた。復旧が進み、落ち着いてきた地域から順に制度も終了になったため、岩手県、宮城県では既に適用期間を終えていた。福島県は福島第一原子力発電所の事故により、旧警戒区域ではまったく手付かずのままの地域もあるため、災害派遣等従事車両の制度は延長されてきた。その制度を利用して全国から集まるボランティアの方たちは、自己資金を投じて被災地に駆けつけ復旧復興活動を行ってきた。しかしその制度が「さあこれからだ」という時に、2013年3月31日をもって終了することになった。被災地では、被災された方々が孤独な復旧作業を行って戦っているのに、その復旧作業を助けて心の支えとなっているボランティアの存在を締め出すかのような制度廃止を誰かが決めた。現地で戦うボランティアの方々の目線からすれば「復興はますます遅れる、誰が復興を殺しているのか」と訴えたくなるようなものだ。これは現地がどんな状況なのか見ていない人が決めたとしか言いようがないのだった。

 

 私たちは宿泊地を南相馬市の北方面に位置する相馬市に決めて、松川浦の港町で2軒の宿を利用させて頂くことにしていた。松川浦は砂州によって太平洋と隔てられた南北に細長い入り江となっていて、風光明媚な景観が小松島とも評され日本百景にも数えられている。潮干狩りも出来るらしい。この漁業が盛んな小さな港町では、豊富な魚介類を提供する旅館や民宿が多くあった。初日の夜遅くにたどり着いた民宿は、松川浦から30mほど離れた所に立地していた。他の部屋には復興作業に従事されている方々の宿泊もあるようだった。気さくな奥さんは津波で被災されたことを話してくれたが、ご心情を察しそれ以上詳しくは聞かなかった。翌30日午前8時すぎ、寒空ではあるものの薄雲のかかった晴れた朝であった。私たちは元気よく宿舎を出発した。今回は鹿島区西町にある鹿島区社会福祉センター内の南相馬市災害復旧復興ボランティアセンター(南相馬市社会福祉協議会)の活動に参加させて頂くことにしていた。鹿島区社会福祉センターは閑静な住宅街の中にあって、午前9時を目標に続々とボランティアの方々の車が集まって来ていた。出発前に登録を済ませておいたのでスムーズに受付を済ませることができた。その際、一人一人に同意書が手渡され内容確認をしてサインをした。この同意書はいわゆる「旧警戒区域内での活動であること」についての確認と、もし地元に帰った後に体調に何らかの異変があった場合は、速やかに医師の診断を受けるようにといったような内容の確認であった。もちろん事前に天災タイプのボランティア活動保険に加入してはいるが、私は運営が社会福祉協議会という全国組織だからしっかりとしたものだと感じつつも、この同意書にサインをしてから少し戸惑っていた。

 

 見渡せば受付を済ませた40名くらいの全国から集まったボランティアさんたちは、お互いを見回すかのように自然に円陣のような形になって最後の受付の方が終わるのを待っていた。その後センターの方から挨拶があり、災害派遣等従事車両の制度が明日3月31日で終了になることについて説明があった。そして、全国から集まるボランティアの方々のためにも制度を延長してほしいと国に要請していたそうだが、残念な結果になったとの報告もあった。この日の依頼先は数件あって、いずれも旧警戒区域の小高区での活動であった。依頼先はすべて事前調査で毎時0.25μSv以下であることを確認しているとの報告もあった。そして被災者の方からのご要望の内容と、ボランティアさんたちとのマッチングによる班分けへと進んだ。私たちは家屋敷地内の清掃作業に志願して、この日初めて会ったばかりのボランティアさんたちと共に作業用具の準備に取りかかった。高輪は「どこから来たの」などと話しかけたりしてコミュニケーションを図っていた。チーム結成時にリーダーを決めることになり「僕初めてなんですけど」と話していた、岐阜県から来たという誠実そうでがっしりした体格の男性がリーダーとなった。リーダーは作業用具の持ち出し数をチェックしたり、依頼者の方にご要望をお聞きする仕事があったり何かと忙しい。訪問先へは手渡された1枚の地図を頼りに訪ねる。ご迷惑にならないよう移動する車は最小限にしなければならず、大宮から来たという女性2人が作業用軽自動車に乗り、リーダーの車に40代くらいの男性が1人乗って、私たち2人は大宮から来たYさんという30代前半くらいの男性の車に乗せてもらうことになった。現地に向かう車内ではお互いのボランティア経験を語り合ったりして情報交換ができた。

 

 Yさんは会社の休日を利用して月1回のペースでこのボランティアセンターの活動に参加していて、今朝4時に大宮を出発してボランティアセンターにたどり着いたという。ほっそりした頬には青い髭が生えている。Yさんはいつもひとりで来ているそうで、今日作業が終わったら明日は仕事があるのでトンボ返りをするそうだ。私は頭が下がる思いになった。依頼者のお宅へ着くと、80才代くらいの叔父さんが迎えて下さった。依頼内容は、家屋敷地内の1年半分の枯木や枯葉を袋詰めにする作業と雑草刈りであった。枯木や枯葉はそれぞれに低線量の放射能汚染をしているため一般ゴミとして捨てられず汚染物として回収されるそうで、袋詰めにしておかないと持って行って貰えないというのが叔父さんの説明だった。叔父さんは警戒区域指定解除の日からコツコツと掃除をされたそうで、敷地内の手前と奥の方に枯木と枯葉の集積場を設けていた。私は前回の経験を踏まえて、今回は放射線量計測器を用意して持参していた。センターでの打ち合わせの際に、線量計は持参しても良いが、被災された方々の見ている前で計測して見せたりしないよう注意があったので、私は小陰で測定して毎時0.16μSvであることを確認した。そして作業時間内に蓄積される積算量を計るため計測ボタンを押してポケットに閉まった。

 

 初々しいリーダーの声かけで敷地奥から作業を始めることになり、集積場の枯葉の袋詰めと雑草刈りを全員でやることになった。敷地奥の方は背後に雑木林があるため降り積もった枯葉の量は多かった。手づかみで枯葉をかき集め手箕(てみ)に乗せ袋に入れる係と、袋を開いて持つ係の2人組になって交代しながら作業をしたり、枯木をノコギリで切ったり、手作業で雑草を抜いたり、みんな無心で作業をしていた。枯葉の袋詰め作業をしていた私は、枯葉の粉塵が舞い、低線量でも内部被曝の可能性があるため、前回使用した雨具のヤッケを衣服の上から着て、マスクと帽子を着用して取り組んでいた。他のボランティアさんたちの中にはマスクをしていない人もいてちょっと心配だった。Yさんはしていなかった。これも個々の判断と自己責任の範疇にあるので、それはそれとして割り切って考えた。作業の最中に、白い防護服で完全防備をしたどこか公的機関からの委託作業員らしき人が、ひとり家屋敷地裏の畑に現れ何やら機器で測定していたので驚いた。完全防備の作業員の立ち位置と、ほぼ無防備に近い私たちボランティアとの距離は30mくらい離れていた。私は、被災された方々にとって早急にしてほしいことは、1日も早く帰宅するために行う復旧作業であって、完全防備で何やら測定などしている場合ではないんじゃないかなという印象を持った。

 

 全員で取り組んだお陰で午前中のうちに敷地奥での作業は終えることが出来た。そしてお昼休みにすることにした。どこといって行く場所もないので、みんな家屋前の道路にあぐらをかいて座り、用意してきたおにぎりなどを頬張りながら談笑をした。高輪はチョコレートやリンゴなどをみんなに振る舞っていた。女性2人は恥ずかしがって車の中で過ごしていた。そうするうち手洗いにでも行こうかという話になり「依頼者宅のトイレは使ってはいけない」という約束事があるので、みんなで作業用の軽自動車に乗り込んで数キロも離れたコンビニのトイレを目指した。その車内も「埼玉県には大宮アルディージャというサッカークラブがあるよね」「浦和レッズもあるよ」などと他愛もない話で盛り上がっていた。本当にみんな爽やかで良い人ばかりだった。コンビニで用を足した一行は再び依頼者宅へ戻ることにした。先ほどは気づかなかったが、国道6号線を走っていると、道路に面した空き地で警察官が乗り込んだパトカーが1台、通行車を監視しているのに出くわした。Yさんの話によると、あれは旧警戒区域内に侵入する不審者を監視しているパトカーであるらしかった。不審者というのは、空き巣を行うような不審な車ということだが、ここだけの話、最大収容人数をオーバーしているかも知れない私たちの軽自動車は不審な車としてお咎めを受けることはなかった。

 

 依頼者宅へ戻ると、叔父さんが電気丸ノコで枯木を切断していた。私たちがいない間にこのお宅の息子さんが帰って来られて、追加分の袋詰め用のゴミ袋を買って来て下さっていた。そして「ではお父さん僕は行きますよ」と叔父さんに言い残して出発された。私たちは敷地手前にある集積場の枯葉の袋詰め作業に取りかかった。敷地手前の集積場は枯木が多く混ざっていてゴミ袋に穴を開けた。叔父さんはそういった枯木を細かく切断しているのだった。「キーン、キーン」と丸ノコの機械音があたりに響く。人数が多いので作業ははかどった。これを叔父さんひとりでするのは大変なことだった。こうした現地で求められていることに柔軟に対応しているのがボランティア団体であって、国レベルでこういう行き届いた復旧作業に取り組むことはない。ではこういうことはボランティア団体に任せっきりで良いのかというとそうではなく、被災された方々が1日でも早く帰宅できるよう国をあげて頑張らなければならない。その上でボランティア団体を頼るならば、全国から集まるボランティアの方々の無償の活動に対して、何らかの優遇措置はあったとしても、駆けつけるための資金をますます圧迫するようなことはあってはならないだろう。

 

 15時30分頃作業は終わった。積み上げられたゴミ袋は全部で50袋ほどになっていた。16時までにセンターに戻るようなことになっていたため、リーダーが叔父さんに声をかけて「また何かありましたらボランティアセンターの方へご連絡下さい」と伝えた。叔父さんは「ありがとう、ありがとう」とおっしゃり何度も会釈されるので、みんな恐縮して「こちらこそありがとうございました」というような心持ちで繰り返し会釈をした。そして作業用具を片付けて車に積み込んだ。私たちは片手を挙げて見送る叔父さんに会釈しながら出発した。私はいつもの通り感慨深い気持ちになっていた。ポケットの放射線量計測器の数値を見ると積算量は0.02mSvとなっていた。計測器が正確に計測してくれたのなら、数値だけ見れば何ら問題はなく、白い防護服で完全防備する必要のない場所であることが分かった。2014年1月4日、叔父さんのお宅がある地域の相馬小高神社で「はしご乗り奉納」が行われた。この日は避難生活を続けている地元住民の方々がたくさん集まり、1日だけ寝泊まりができるご帰宅が実現したそうだ。本当に嬉しいニュースだった。旧警戒区域はこれから復旧復興活動が始まるので支援の手を緩めてはならない。

 

 南相馬市災害復旧復興ボランティアセンターへたどり着くと、使用した作業用具の洗浄を行い倉庫へ片付けた。すると「おつかれさまでした!」とセンターの方から声かけがあって、私たちは仲間と一緒に談笑しながら、紙コップに注がれた暖かい紅茶とお菓子をごちそうになった。そして「じゃあまたどこかで会いましょう」などと挨拶を交わして別れた。このボランティアセンターでは作業内容の性質上からか、福祉センター内にある大浴場に入浴させて頂けるサービスまであった。私はこういうボランティアセンターは初めてだったのでびっくりしたが、お言葉に甘えて利用させて頂いた。センターを出発したのは17時頃だったろうか、国道6号線を走りながらまた感慨深いものがこみ上げてきた。全国から集まるボランティアの方々は被災地の復旧復興のために働いている。受け入れ側は暖かく迎え、お互いに協力し合って活動を行っている。やっぱり気持ちには気持ちで応えるのが1番気持ちが良い。どこへ行っても初めて会うボランティアの方々は爽やかで心が綺麗な人ばかりだ。もし私に自由があるなら、こういう現場に生涯を捧げたいという気持ちになった。被災地を訪ねる毎に私の価値観は変わってきている。私たちは心地よい疲労感を感じつつ、松川浦で2軒目となる4階建ての旅館に到着した。こちらの旅館は松川浦から100mくらい離れてはいるが、被災当日は2階まで海水に浸かったと女将さんは話して下さった。宿泊者の不安を払うためか、女将さん自ら私たちを3階の部屋まで案内して下さり、満室でない限り普段は3階4階に案内するようにしているともお話下さった。私はそういう気遣いをされていることに申し訳ない気持ちになった。1日目の民宿の奥さんも2日目の旅館の女将さんも被災されたことを隠すことは無く、聞いてほしかったのではと思うくらいの様子でお話しくださっていた。私は聞くことしかできなくても、被災された方々の心をひと時でも支えることができるかも知れないと感じた。

 

 3月31日、私たちは金沢へ帰ることにしていた。そして帰る前に相馬市の海側の被災状況を見ておこうと思い出発した。この日は前日とは打って変わって朝から冷え込んでいて、寒風に煽られながら小雪が舞っていた。松川浦を離れて北西方向へ旋回して行くと、やはりここにも津波は来ていた。港湾関係の建物だろうか、頑丈なコンクリート造りの建物の中身はすっかり無くなっている。丘を越えて平野へ下って行くと、あたり一面は基礎だけを残した住宅地であった。少し小高い丘の上に建てられた住宅は無事だったようだ。こうして基礎だけが残った土地を見ていると本当に辛い気持ちになってくる。車を降りて少し歩いてみると、先程より強くなった小雪交じりの寒風がヒュウヒュウと音を立てて頬を切り抜けていく。残酷なまでに寒くて静かだ。なぜ津波は何の罪もない人たちの命を奪ったのだ。車へ戻り基礎ばかりが残された町をぼんやり見ながら走っていると、不意に赤い旗が立てられている場所を見つけたので近寄って行った。私たちは車を降りてその赤い旗に手を合わせた。この赤い旗はこの場所でどなたかのご遺体が発見されたという印だった。震災から2年経った今も、すべてが無くなった町で”たったひとりで何かを訴えている”という印象だった。

 

 どれくらい走ったろうか、相馬市から北上して新地町までたどり着いた。もう少し行くと宮城県山元町との県境になるようだった。インターネットで被災当時の写真を見ると本当に壊滅的な様子だったことが分かるが、今はどこへ行っても住宅の基礎が残された土地ばかりになっている。私たちは国道115号線を走って福島西ICへ向かった。国道115号線は山あいの道で道路幅もそれほど広くはない。車窓からは山林の間に古い集落や農地などが広がっている。そうしたのどかな風景の中に、黒色やベージュ色の大きな袋に包まれた汚染土が、道路沿いの空き地に規則正しく並べられていた。人が生活しているだろう住居の庭にも保管されているのも見た。これが子供たちの通学路にでもあったなら大変なことだと思った。この様子は2012年9月に訪れた時はなかったが、あれから半年を経て除染され袋詰めにされたということだろう。震災から2年経ってようやくこんな状況だから、復興はなかなか進んでいないと言わざるを得ない。

 

 2013年11月下旬、松川浦の旅館の女将さんからハガキが届いた。それは2013年7月に58才という若さでご主人がお亡くなりになられたという喪中ハガキだった。私は頭が真っ白になった。思い浮かぶのは小柄な体でキビキビと接客していた女将さんの姿だった。被災した旅館を夫婦で再建して、さあこれからだという時だったはずなのに、あのにこやかな表情が今はどんな表情になっていて、どんな心境で旅館の窓から松川浦を眺めているのか、私はほんのわずかなご縁であったけれど他人事だとは思えず、無性に悔しさがこみ上げてきたのだった。「みなさまに良い年が訪れますようお祈りいたします」という1行が本当に重いメッセージとなって私の心に刻まれた。「女将さんこそ良い年をお迎えください」だとか「気を落とされず元気を出して下さるように」などと言っている場合ではない。本当に追い打ちをかけるかのように、神様は被災された方に試練を与えている。そんな神様なんていらない。私たちに出来ることは本当に限られている。心配だ。心配ならばもっと力になれることをしなければならない。今度相馬市へ行く時は団体を引き連れて宿泊予約しなければと思う。私はこのハガキを受け取ってからますます緊張感を持つようになった。ご主人様のご冥福を心からお祈りしたい。

  

 震災直後の国内には自粛ムードが広がり、東北の方々を思う時間で埋め尽くされていた。そういう状況の中で火事場泥棒があったことはあまり報道されなかった。被災した地域の震災がれきに紛れて産業廃棄物を不法投棄していく産廃業者もあった。人間は我が身を捨てでも他人を深く愛することが出来るけれど、簡単に裏切ることもする。被災地で再起を図ろうとする人たちにとって、身銭を切り崩して、汗水流して家屋清掃をしてくれた全国のボランティアさんたちや、物資や資金提供をしてくれた無償の人たち、そして愛するご家族以外に信用できる人は日本国中にどれだけいるのだろうか。義援金募金をすればそれで終わりでは頼りない。避難生活を続ける人、今も家族の帰りを待ち続ける人、悲しみを乗り越えようとしている人たちにとって、被災していない大多数の日本人は他人だ。それもなんの関わりもない無縁の人たち。被災地の現状に対して、感心があるという人、感心がないという人、被災者の方からすればどちらも同じ人。日本の大多数を占める被災していない日本人の生活は今まで通り守られていて、被災した方々はすべてを奪われたまま大多数の日本人から無視されているかのようだ。内心さめざめとした気持ちで暮らしておられるのではないだろうか。

 

 被災地から遠く離れていると、離れているだけで現地の方々の気持ちを見失ってしまいそうになる。だからこそ日頃より「もっと知らなければ、もっと考えなければ」という気持ちを持ち、その気持ちを大切に育てて行かなければならない。平穏に積み重ねられていく一日一日を私たちは当たり前のように思っている。しかし現地に行き、その場の空気を感じることで初めて気づかされることもたくさんある。ここに来れば、被災された方々の立場に立って考えることに意識が集中され、傷ついた土地に立っているこの自分さえも「自分たちは世界から取り残されている」というくらいの孤立無援を感じる。被災地の現状は実際に見に来ないと分からない。見に来た上で、現地の方々の苦悩がどれ程のものか思いを巡らせれば、じわじわと差し迫ってくるように、どこかに自分を必要としてくれている人はいないだろうかという気持ちも湧いてくる。日常では生きていくために仕事をしているから、片時も忘れずにという訳にはいかないが、一度でも被災地を訪れたなら、共にこの苦難を戦って乗り越えていこうという気持ちも生まれるかも知れない。無心になって他人に尽くす日本人の心とはどんなものだったのだろうか。3.11に起きた出来事は、私たちにたくさんのメッセージを投げかけている。先日、私たちがこれまで訪ねて来た被災地の様子を記録したウェブサイト「Your justice」を公開した。お立ち寄り頂きたい。 http://www.your-justice.org/

 

 

 東日本大震災・被災者数

  亡くなられた方(直接死)15884人/行方不明の方 2640人(2014年1月10日現在)

  亡くなられた方(震災関連死)2916人(2013年9月30日現在)

  避難・転居者 27万4088人(2013年12月12日現在)

 

 

 今までの日本政府の対応に満足できている被災者は多くはない。私たちが納めている復興税が被災地とは関係のない方面にばらまかれていたことは情けないことだった。東京電力の汚染水問題は先行き不透明なままだ。地下水を通じて土壌汚染が拡大していくことが気がかりでならない。原発からは放射性廃棄物(死の灰)が排出される。その恐怖の死の灰は埋め捨てにする政府の計画のもと、次世代の子供たちに平気な顔をしてたっぷりと残していくことが予定されている。原発問題は国任せ人任せにしてはいけない。大半の日本人は忙しくて仕事と生活に追われているかも知れない。だけれど自身の心の平安だけを追い求めるだけで良いのだろうか。忙しいとばかり唱えていると、いつしか立ち止まって考えることもしなくなってしまう。私たち大人は未来を生きる子供たちのために責任ある行動をしていかなければならない。震災によって一度は立ち止まったはずの日本政府は、すぐ立ち上がり経済活動へ目を向けた。復興活動はやがて3年を迎えようとしているのに一向に進んでいない。誰が復興を停滞させているのか。なぜ日本政府は海外の専門機関に依頼して原発事故の調査究明をしないのか。それをするどころか、日本国首相自らトップセールスまでして、原発事故の直後から海外に原子力発電の輸出を積極的に行っている。日本は世界で三本の指に入る深刻な原発事故を引き起こしたが、未だに今回の原発事故の問題を洗いざらい検証していない。自国での核廃棄物の最終処分場も存在しない。原発安全神話は粉々に崩壊した。それでも倫理は必要なく、新たな安全神話をスーツケースに詰めて海外にセールスに行くのだった。

 

 3.11以降の日本では、運転停止をしている全国の原子力発電所の再稼働を巡って、原子力規制委員会で様々な議論が成されている。一部の脱原発派の人たちの活動も虚しく「再稼働することを前提とした議論」が繰り広げられている。2013年9月15日現在、全国17原発50基のうち稼働している原発はゼロで、他に廃炉中が7基となっているが、活断層がなくその他の安全基準をクリアした原発から順番に再稼働していくのだろうか。ご存じの通り、原子力発電所を稼働すれば高レベル放射性廃棄物が排出される。この廃棄物は別名「死の灰」とも呼ばれ、再処理を施したあとウランやプルトニウムなどを取り出してガラス固化体にする。この固化体のそばに人間が立つと20秒以内に死ぬ。これを地下400mより深い安定した地層に埋めて処分する計画をしている経済産業省は、埋めたあとも回収できる形で処分する案を専門家会議で示した。高レベル放射性廃棄物が安全なレベルまで下がるのに10万年かかると言われているが、10万年先まで見通した計画なんて現実的ではないことは誰が考えても分かることだろう。それに10万年も世界の原発が稼働していたなら、核廃棄物(死の灰)は貯まる一方で、ついに捨てる場所がなくなった時には、地球はもはや生物が住める場所ではなくなっているのではないだろうか。他に宇宙に捨てるという話もあるらしいが、そこまでして人間は自分たちの利益を追求しなければならないのだろうか。もしそうだとしたら、そういう勘違いから早く目を覚まして、謙虚な心で地球と向き合っていかなければならないだろう。

 

 1986年4月26日、ソビエト連邦時代のチェルノブイリ原子力発電所で起きた世界最大級の原発事故は、ヨーロッパ諸国や周辺諸国に放射性物質を振りまいた。この事故は、外部電源喪失を想定した非常用発電系統の実験の際に人為的ミスが発生して、それが引き金となって大事故へと発展した。放射能の量は広島市に投下された原子爆弾による放出量の約400倍相当だった。事故直後ソビエト連邦は国家機密の漏洩を恐れて、あろうことか原発事故の発生を内外に公表しなかった。そして翌日27日にスウェーデンのフォルスマルク原子力発電所で高線量の放射性物質が検出され事実確認を受けた。ソ連は事故発生から2日後の28日に原発事故を引き起こしたことを認めた。ソ連政府は施設周辺住民への避難措置も取らず、住民は事実を知らないまま数日も日常生活を送り、高線量の放射能を大量に浴びて被曝した。なんと恐ろしいことだろう。このチェルノブイリ原発事故では、爆発した4号炉建屋から放射能が拡散しないようコンクリートで封じ込めるために、延べ80万人の労働者が動員された。この構造物は石棺と呼ばれ、爆発で命を落とした作業員の遺体もそのまま封じ込められた。チェルノブイリ原発事故の事故処理に当たった作業員の多くが被爆した。この原発事故はヨーロッパ諸国に放射性物質を振りまいた。事故から8日経った5月3日には日本にも雨に混じって放射性物質が降り注いでいた。1991年のソビエト連邦崩壊後は、独立国家となったウクライナの領土内にチェルノブイリ原発が立地するためウクライナに事故処理の義務が引き継がれた。

 

 ウクライナでは2010年の時点で原発から半径30km以内の地域で居住が禁止され、北東方面へ約350kmの範囲内には局地的な高濃度汚染地域が約100箇所も点在して、農業や畜産業などが全面的に禁止された。地域によっては土壌汚染があったにも関わらず、今日まで十分な除染作業をしないままとなっている地域もあった。その地域で育った子供たちは牛乳から放射性物質のヨウ素を摂取したため甲状腺ガンを発症している。IAEAの報告によると「事故発生時に0歳から14歳だった子供で、1800件の記録された甲状腺癌があったが、これは通常よりもはるかに多い」としている。甲状腺ガンを摘出した子供たちの首にはひどい手術跡が残っていて「チェルノブリイリの首飾り」と呼ばれている。甲状腺を摘出した場合、代謝を司る甲状腺ホルモンを体内で作ることができなくなるので、甲状腺ホルモンを毎日摂取しなければならない。原発事故がもたらした人体への影響は、長い潜伏期間を経て癌や白血病を発症させている。その他にも脳に障害が起きたり、呼吸器に異変が起きたり、体に痛みを抱えるなど、健康を害している子供たちが今もゆっくりと増え続けている。除染を徹底しなかったばかりに、次世代を生きる子供たちが苦しみながら生きている。これはチェルノブイリに限っての話ではなく、全世界における原子力エネルギーのあり方とその是非が問われていることは言うまでもない。私たち大人はいずれこの世を去らなければならない。だからこそ次世代を生きる子供たちにとって”負の遺産を押し付けて逃げて行った大人たち”となってはならないのだ。

 

 1996年に放映されたNHKスペシャル「チェルノブイリ原発事故・終わりなき人体汚染 ~チェルノブイリ原発事故から10年~」というドキュメンタリー映像は衝撃的だった。チェルノブイリ原発事故はヨーロッパ諸国の原子力エネルギー政策にも影響を与えた。ドイツでは国民による脱原発運動が活発化され、ドイツ政府は再生エネルギー政策へ大きく舵を切った。今では太陽光発電による電力の輸出が盛んになり、周辺国は自国での発電をやめてドイツから輸入している。チェルノブイリ原発事故をきっかけにドイツは劇的に変わり、2011年3月の福島第一原子力発電所事故の惨状を受けて、すべての政党が脱原発に合意したそうだ。日本では未だに「原発を安全に利用できるなら」だとか「とりあえず今は稼働させておき段階的に減らしていこう」などと曖昧に考えている原発依存者が多い。日本人は自国でどんなことが起きたのか本当に把握しているのだろうか。2013年11月、自民党の河野太郎議員がドイツを訪問した際に、ドイツの国会議員に脱原発に舵を切った理由を聞くと「国民が望んだことを政治が判断したまでだ」と答え「なぜ日本では地熱発電をしないのか」と驚かれた。河野議員の調査では、日本で地熱発電を行った場合、全体で2000万KW(原発20基分)に相当する安定資源があることが分かっているらしく、地熱発電用タービンの国際シェアの約7割を日本企業が占めているそうだ。それなのに日本では地熱発電はまったく進んでおらず、原発を稼働停止してから石油や石炭の輸入に頼っている。なぜ日本政府はドイツが成し遂げているような再生エネルギー政策に舵を切れないのだろうか。国民が原発を望むなら原発は稼働し続け、脱原発を進めて再生エネルギーへの転換を望むなら国の権力はそれに従うことになる。国のエネルギー政策を決めるのは国会議員かも知れないが、その国会議員を選ぶのは国民ひとりひとりだ。先日報道番組で選挙に関心がないという若者が増えていることを知った。全員がそうだとは言えないが、投票率が低い選挙に民意が反映されているとは言えない。私は総じて政治家だけが悪いとは考えてはおらず、むしろこの国の将来について考える国民の意識格差にこそ問題があるのではないかと考えている。

 

 「チェルノブイリ原発事故・終わりなき人体汚染 ~チェルノブイリ原発事故から10年~」の映像は、今後NHKオンデマンドで配信される日を待つかDVDが販売されていないか調べてほしい。NHKオンデマンドでは、その続編として、NHKスペシャル「汚された大地で ~チェルノブイリ 20年後の真実~」というドキュメンタリー映像が配信されているのでぜひご覧頂きたい。共に重要なドキュメンタリー映像だ。

 

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チェルノブイリ原子力発電所事故

 

 国連科学委員会は2008年の報告で集団積算線量を以下のように推定している[46](1986-2005年の間の累計値)

  ・復旧作業者、53万人の集団積算線量は61200人・Sv、平均一人117mSv

  ・避難民、11万5千人、集団積算線量は3600人・Sv、平均一人31mSv

   ・ベラルーシ、ロシア、ウクライナの汚染地区に住む住民、640万人、集団積算線量は58900人・Sv、平均一人9mSv

 

 2000年4月26日の14周年追悼式典での発表によれば、ロシアの事故処理従事者86万人中5万5000人が既に死亡しており、ウクライナ国内(人口約5000万人)の国内被曝者総数342.7万人の内、作業員は86.9%が病気に罹っている。チェルノブイリ原子力発電所から約80キロ西にあるウクライナの農業地帯のNarodichesky地区に住む子供は、事故から十年以上を経ていながら、慢性的な低線量被曝下にあり、1993-1998年の6年間にわたる追跡調査によると、土壌に含まれるセシウム137の濃度に比例して、赤血球、白血球、血小板の減少、ヘモグロビン濃度の低下が観測され[46]、スパイロメトリー(Spirometry)を用いた検査からは、気道閉塞(Airway obstruction)および拘束性肺機能障害の有意な増加が観測されている[47]。出典46.^ 国連科学委員会UNSCEAR-2008 Annex C 38 頁、表-9、閲覧 2011-07-17 出典47.^ チェルノブイリ事故による放射線影響と健康障害(原子力百科事典 ATOMICA)

 

「チェルノブイリ原子力発電所事故」の書誌情報〈引用〉 / 項目名: チェルノブイリ原子力発電所事故 / 著作者: ウィキペディアの執筆者 / 発行所: ウィキペディア日本語版 / 更新日時: 2013年10月4日 17:14 (UTC) / 取得日時: 2013年10月22日 09:31 (UTC) / 版指定URL: http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%96%E3%82%A4%E3%83%AA%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80%E4%BA%8B%E6%95%85&oldid=49312133 / 主な執筆者: (改版集計情報) / 項目の版番号: 49312133

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 「原発テロ」という言葉を聞いたことがあるだろうか。これは文字通り、稼働中の原発に対してミサイルなどで打撃を与えることで、爆撃されれば原子炉が破壊される危険があるので原発テロが実行されたなら大惨事となる。1981年6月7日、イラクが核兵器を持つ危険性があるとして、イスラエル軍が自衛目的でイラクの稼働していない原子力施設を空爆する事件が起きた。イスラエルは国際連合安全保障理事会決議により非難された。こうしたイスラエル軍の原子炉爆撃は先進国を含む国家間の駆け引きにも使われているという危うい話もあるそうだが、2007年9月6日、またもイスラエル軍による、シリアの建設中の原子炉に対して空爆が行われた。もし原子炉が稼働していたなら激しい爆風と共に死の灰がまき散らされ多くの犠牲者を出すことになるのだった。こんな一歩間違えばどうにでもなるような状況下に全世界の原発は置かれている。人類史上最悪の死の施設を稼働させている国家は、こうした原発テロの脅威に対して向き合わなければならない。もし日本の稼働中の原子力発電所に国際テロ組織によるテロ攻撃が実行されたらどうなるだろうか。口にするだけでも恐ろしく、また目を反らし考えない訳には行かない問題だ。

 

 1993年5月29日に行われた北朝鮮によるミサイル発射実験(ノドンミサイル)は、着弾地が能登半島沖北方350km付近と考えられたが、後に日本列島を大きく横断して太平洋に着弾したとも伝えられた。ノドンミサイルは目標が日本なら6~11分程度で日本各地へ着弾するそうだ。射程距離は1,300km~2,000kmとなり日本本土の大部分が射程範囲となる。1998年8月31日にはテポドン1号の発射実験が行われた。テポドン1号は射程が2,000km程度の中距離弾道ミサイルで、第1段目が日本海に、第2段目は太平洋の三陸沖に着弾したとされている。大気圏外を通過したとはいえ、事前通告のない発射実験による太平洋への着弾は、日本の上空を通過したことに変わりはなく、日本政府は北朝鮮に抗議した。2006年7月5日にはノドン、スカッド、テポドン2号など7発の発射実験が行われ日本海に着弾した。これにより、北朝鮮の弾道ミサイル計画に関わる全ての活動の停止を要求する国際連合安全保障理事会決議が採択された。にも関わらず2013年4月10日、故金正日の後継者となった金正恩主導のもと中距離弾道ミサイル「ムスダン」2基が移動式発射台に設置された。国連の決議に反してエスカレートしていく北朝鮮の威嚇に日本国中が騒然となったことは記憶に新しいことだ。2013年7月27日に報道された北朝鮮の軍事パレードでは、放射能マークが付いたカバン状の物体を兵士が胸に抱えている様子が確認された。将来的にもこのような核兵器に執着する北朝鮮が近隣国にあることがどれ程脅威であるかは言うまでもない。我々日本人はもっと緊張感をもって国際情勢を見ていなければならないだろう。もし北朝鮮のミサイル発射実験が誤って日本の国土に着弾する、もっと言うなら再稼働した原発に着弾したなら大惨事になるだろう。北朝鮮に限らず、アメリカの同盟国として日本に対するテロ行為が発生する場合は、テロリストたちはどこを標的として狙うだろうか。

 

 2013年9月8日、2020年オリンピック招致委員会のプレゼンテーションで安倍晋三首相は、福島第一原発の汚染水問題に懸念が出ていることに対して「状況はコントロールされており、東京に決してダメージは与えない」と述べ、その後の質疑応答でさらに詳しい説明を求められ「汚染水による影響は、福島第一原発の港湾内の0.3平方キロメールの範囲内で完全にブロックされている。福島の近海で行っているモニタリングの数値は最大でもWHO(世界保健機関)の飲料水の水質ガイドラインの500分の1だ。また、わが国の食品や水の安全基準は世界で最も厳しいが、被爆量は日本のどの地域でもその100分の1だ。健康問題については今までも現在も将来も全く問題ない。」と述べた。安倍首相はIOC委員の質問に対して「汚染水が港湾内で完全にブロックされている」「状況はコントロールされている」と意気込んだ。海には満ち引きがあり海流もある。海水は港湾内外を出入りしていて、汚染水だけをスクリーンで完全にブロックしているという話には無理がないだろうか。9月13日、民主党原発対策本部会議において東京電力・山下和彦氏は「今の状態は申し訳ありません。コントロールできていないと我々は考えています」と述べ、その後東京電力の技術顧問がそれを否定した。

 

 オリンピック招致委員会のプレゼンテーションの最中も汚染水は海に流れ出ていた可能性はあった。完全にブロックされているかどうかの確証もない。これは国際社会に対して公然と嘘をついてしまったことにもなる。9月19日、福島第1原発の視察に訪れた安倍首相は、現地で東電の小野所長から放射性物質の海への流出や、海中での拡散を防ぐ対策の説明を受けた際に「0.3はどこ?」と質問した。これは先のオリンピック招致委員会で「汚染水による影響は、福島第一原発の港湾内の0.3平方キロメールの範囲内で完全にブロックされている。」と自ら説明したのに、実際の範囲がどの程度なのか全く把握していなかったことを露呈させた。9月20日、全町民が避難を続ける福島県浪江町の議会は「事実に反する重大な問題がある」と意見書を提出して、原発から1日300トンの汚染地下水が港湾内に流れ出ていることを非常事態と指摘した上で、安倍首相の無責任な発言に強く抗議した。

 

 2014年1月23日に告示された東京都知事選挙には、脱原発を掲げる細川護熙元首相が立候補して、同じく原発ゼロを唱える小泉純一郎元首相が支援することが決まり話題となった。小泉元首相の動静は政権与党を混乱させた。ある元大物政治家はテレビ番組の中で「6年先の五輪のためにはもっと電気が必要だ。今からゼロなら、五輪を返上するしかなくなる。世界に対して迷惑をかける。」と言って対抗した。オリンピックを人質にとって批判するのはおかしな気もするが、原発続行で迷惑をかけるのは次世代の子供たちなのであって、今さえ良ければという大人たちや、鈍感な大人たちはそろそろ目を覚まさなければならないだろう。あんな大事故が起きたのにまるで知らんぷりしているかのようだ。原発事故は津波によって引き起こされたかも知れないが、東電のずさんな対応も明るみになり、事故処理も政府と東電の手に負えない規模にまでどんどん拡大している。福島県の漁師の方々は政府から禁じられて漁も出来ない。政府と東電は漁師の方々に散々迷惑をかけていながら、生活の糧を根こそぎ奪い取って、平気な顔して今も密かに汚染水を海に放出している。誰もが聞くことのない漁師一家の声なき声があることを、そしてそれが為す術もなく心を傷つけられたまま消えそうになっていることを日本国中が知らなければならない。

 

 2013年11月12日、日本記者クラブの主催による小泉元首相の記者会見が行われた。ご存じの通りテーマは「原発ゼロ」についてだった。「日本再生最終勧告・原発即時ゼロで未来を拓く」の著者である故・加藤寛慶大名誉教授の影響を受けたとされる小泉元首相は、2013年8月にフィンランドを訪れ、世界初の高レベル放射性廃棄物の最終処分場「オンカロ」を視察した。オンカロとは日本語で洞窟や隠れ家を意味する。オンカロは、フィンランドの首都ヘルシンキから200km以上離れた岩盤でできた島にあって、核廃棄物は400mほど掘った地下の縦横2kmの広場に埋められるそうだ。収容スペースはフィンランドが稼働させている原発4基のうち2基分の容量しかない。現在5基目を建設していて2016年からの稼働を目指している。地盤がしっかりしているフィンランドなら良いということではないが、ガラス固化体となった核廃棄物が地震の起きやすい地盤や、地下水が基準値以上に流れている地盤で保管されると、放射能漏れによる土壌汚染の危機にさらされることになる。日本では、地球そのものにある13本か14本の大陸プレートのうち4本が国土に関与しているので地震が多く火山も活動的だ。地震にもビクともしない岩盤で出来た国フィンランドではオンカロが実現したが、地下水が豊富で温泉が涌き出るような日本のどこにオンカロが作れるのだろうか。

 

 1993年から約2兆1900億円を投じて青森県上北郡六ヶ所村に建設された六ヶ所再処理工場には、現在1700本ほどの使用済み核燃料が保管されており、全国にある原発では約25000本もの使用済み核燃料が保管されている。2002年から原子力発電環境整備機構が、最終処分場候補地として調査を行う地域を全国の自治体から公募しているが、国からの補助金を目当てに死の灰を積極的に受け入れる自治体は当然いない。日本の原発は「トイレなきマンション」だと呼ばれている。2011年5月9日、日米からの原子力技術支援を受ける見返りに、モンゴルに世界初の国際的な核廃棄物貯蔵施設や、最終処分場を建設する計画が極秘に進められていたと毎日新聞が報じた。もしこれが事実なら、自国の核廃棄物を第3国に捨てるというあまりに身勝手な計画と言える。もしこんな計画が一度通ってしまうと、世界各地で後進国をターゲットにして、先進国が核のゴミを大量に捨てて行くことに発展しないだろうか。高レベル放射性廃棄物が安全なレベルまで下がるとされている10万年後に人類は存在しているだろうか。10万年後に存在するのは核廃棄物(死の灰)による土壌汚染で変わり果てた姿になった灰色の地球であってはならない。

 

 小泉元首相が記者会見で紹介した「新しい火の創造」(エイモリー・B・ロビンス著、ロッキーマウンテン研究所著)は、著者の要望で、河野太郎議員を通じて小泉進次郎議員の事務所に届けられ、小泉元首相の手に渡ったそうだ。この書物の内容説明に”石油や石炭、核エネルギーは無用で、天然ガス使用量も現在の3分の1以下となる。新たな発明も不要だ。「新しい火の創造」は、利益と雇用から、国家安全保障や健康、環境への責任まで、理路整然と、収益性のある実際的な道筋を指し示している。さらには、明晰かつ巧みに、企業が新たなエネルギー時代を築くという、驚くべき機会を明らかにしている。”と記載されているので、私は夢のある再生エネルギーの実現に向けて、この書物を楽しんで読みたいと思っている。この書物が核依存社会の未来を切り開く切り札となれば素晴らしいことだ。

 

 2013年10月18日、安倍首相は参議院本会議の代表質問で、原発輸出について「東京電力福島第1原発事故の経験と教訓を世界に共有することにより、世界の原子力安全に貢献していくことがわが国の責務だ。相手国の意向や事情を踏まえつつ、技術を提供していく」と述べ、共産党の市田忠義議員による脱原発論に対しては「原発停止で石油など化石燃料への依存を高めている。3兆円以上の燃料輸入費の増加や電力料金の上昇という形で、国民生活や経済が大きな影響を受けている」と述べた。

 

 世界で唯一の被爆国として日本が世界に訴えるべきことは、戦争による核兵器の恐ろしさ、原発事故による放射能汚染の恐ろしさではないだろうか。日本が世界に原発の技術を提供するということは同時に核兵器開発への第一歩を提供することにもなる。戦争の悲惨さ、放射能被爆の恐怖を身をもって体験している日本だからこそ「核兵器廃絶」「脱原発」という人類最大の難題に対して訴えることが出来るのではないだろうか。今、日本政府は核の世界的普及に貢献しようとしている。倫理的にも日本の生き方は矛盾している。核によって犠牲となられた方々の声なき声に耳を傾けてほしい。そして今も放射能汚染と戦っている方々の心を傷つけていることを忘れないでほしい。私たちは未来を生きる子供たちに対して責任ある生き方をしなければならない。あれだけのことがあったのにあなたの心は平和だろうか。私たち大人が未来に示すべき正義(Justice)とはどうあるべきなのだろうか。

 

 

  いつか生まれる君に わたしたちは何を残しただろう

2014年 如月

 

 

 

 

[出典]

 ・チェルノブイリ 最後の警告 / 高木仁三郎著(1986年12月 七つ森書館発行)

 ・NHKスペシャル「チェルノブイリ原発事故・終わりなき人体汚染 ~チェルノブイリ原発事故から10年~」(1996年放映)

 ・NHKスペシャル「汚された大地で ~チェルノブイリ 20年後の真実~」/ NHKオンデマンド https://www.nhk-ondemand.jp/

 ・Wikipedia「チェルノブイリ原子力発電所事故」「福島第一原子力発電所事故の経緯」

 ・小泉純一郎の「原発ゼロ」/山田孝男著(2013年12月15日 毎日新聞社発行)

 ・文藝春秋2014年新年特別号 特集「小泉脱原発宣言」を断固支持する / 自民党河野太郎議員(2013年12月10日出版)

 

[紹介]

 ・高木仁三郎の部屋 -原子力資料情報室- http://www.cnic.jp/takagi/

 ・新しい火の創造 / エイモリー・B・ロビンス著、ロッキーマウンテン研究所著 / 山藤 泰 訳(2012年10月5日 ダイヤモンド社出版)

 ・再生可能エネルギーがひらく未来著者 エイモリー・B・ロビンス、新原浩朗、福山哲郎、佐和隆光、村上憲郎、槌屋治紀(2013年9月5日 岩波書店出版)

 

 

発行 2014年2月14日 * 制作 office nao * Your Justice http://www.your-justice.org/